思想地図β2

思想地図β vol.2 震災以後

思想地図β vol.2 震災以後

 この本「思想地図β2」は、編集長の東浩紀氏の巻頭言「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」から始まる。

 震災直後は「一つになろう」という言葉がテレビ等の媒体から頻繁に流れ、日本が長い低迷期から抜け出し新しく生まれるかもしれないという機運が高まったように感じられたが、震災から数ヶ月経ってみてどうだろうか。
震災により一つになっておらず、むしろばらばらになってしまった。
正確には震災前からばらばらであり、震災後何も変わらなかった。
人々は所得、地域、家族構成等によってばらばらな震災を経験し、そこに連帯というものを感じることができない。
これからの時代、望ましい連帯のあり方はどのようなものであるか、今答えはないがそれを思考し導き出す可能性となることができれば。。
というものである。

 この本は、2011年3月11日の東日本大震災では何が起こったのか、震災後求められるのは何か、思想、社会、政治、科学、メディア等の様々な分野から述べられたものを集約した本。
巻頭言に集約されているかのように、それぞれの記事は様々な分野からの「連帯」というのが一つのテーマになっているように感じ取られ、またそれぞれが今後のなすべき具体的な答えまで言及するものではなく、模索するための手掛かりとして留まってるように感じ取られる。
今と何年後、何十年後の未来とを繋ぐ震災の記憶として、残しておきたい一冊である。

 この本によって自分が感じたことはこの本の主旨に則ったものではなく、若干の相違がある。
今回の震災をきっかけに、この「連帯」について意識するよりも今後個人としてどうあるべきか思考することとなり、この本の様々な記事により、震災当時はっきりしなかったものが明確になったような気がした。

 2011年3月11日は国土交通省職員をやっていたので震災を役所で迎えていた。
当然ながらそれまで経験したことのない揺れを感じたのだが、地震30分程後に目に映ったのは自然の驚異とは思えないような津波の映像であり、この地震は想像をはるかに超えたものであることに気づかされた。
 ちょうどその当時、Twitterを情報源として使い始めたころであった。
役所というのは現代社会にて起きている高度な情報化を全くもって認識できていない組織の典型で、業務に関係ないと判断されるサイトへのアクセスが規制されている。
アダルトサイト等は当然理解できるが、ブログなんかは閲覧することができない。
そもそも業務中にインターネットを開いていること自体が悪とされているような「空気」を感じる。
今は個人でも誰しもが情報源たり得る時代なのにも関わらず。。
前職への愚痴は後にもたくさん登場するのでこの辺にしておくが、そんな役所のネット事情であったのにも関わらず、なぜかTwitterにはログインできたのだw(Facebookmixiも)。
 この本では、津田大介氏により「ソーシャルメディアは東北を再生可能か」と題され、被災者の方々からの「今一番欲しいものは情報」という声の書き出しから始まり、今回の震災におけるTwitterFacebook等のソーシャルメディアの大きな役割を担ったことについて詳細な分析から述べられている。 
 今回の震災ではそれをリアルタイムで体感することができた。
 知り合いで震災時に会社等の建物内におらず、外出していた人が少なくなかったのだが、電話回線不通の中、皆Twitterを情報源として使っていた。
「お台場に行ったが電車が止まっているため、歩いて帰っている。お台場に津波が来るらしいが、いつ頃にどれぐらいの高さの津波が来るのか」
「知り合いが都内にいるが、電車止まっているため帰宅できない。どこが避難所として開放されているか知っている人いませんか」
等々。
Twitterにログインしてから、テレビをはるかに上回る情報の量とスピードに釘付けになっていた自分は、即座にお台場の津波情報をツイートしたり、東京都副知事の猪瀬氏が開放されている避難所の情報をツイートしていたものをリツイートしたりした。
この間、スウェーデンの大学に留学している日本人から当時担当していた土地収用法に関する問合せがあったりしたがw、災害対応の主務官庁である我が役所はまだ災害対策本部を組織する作業に追われていたのであった。。
 またTwitterは、個人レベルから吸い上げられた必要な情報がフォロワーの多い著名人によりリツイートされその情報が一気に拡がっていった。
その情報伝播能力には衝撃を受けた。
 震災の日は役所に宿泊し、それから交代で災害対策本部に詰めた。
そこでは主に広報の担当をしたのだが、その仕事内容というのは各現場事務所からパトロール等により集められた道路等インフラ施設の被災状況をHPにアップし、また各都道府県の記者クラブ?にFAXで送信する、というもの。
しかもHPにはPDFにて貼付け、さらにその様式は決められており、地図ではなく文字のみものである。
一方ネット上では、例えばホンダがGPSの情報から、どの道路が多く使用されているのか、Google mapに視覚的に表示及び公表する等、有効な情報が伝播していた。
震災後しばらく経ってから経産省かどっかからPDFはガラケーから見れないんでテキストにしましょうよ的な主旨の御触れがあったが、その情報を知ったのはTwitterであったので、当然ながら我が役所はそんなことは知るよしもなく、最後までPDFの貼付けであった。
リアルタイムで必要な情報を携帯から見ることができない、しかも文字による地名羅列の情報。
そんなもん誰が求めるのか。
我が役所から発信された情報をTwitterにて目にすることはなかった。
どうやら災害対策本部を設置してマニュアル通りの任務をこなすだけで満足してしまう思考停止状態であったと思えてしまっても仕方がないようだ。
災害対策本部の仕切り役として夜遅くになっても奔走している仲の良い同期の姿を見て、いたたまれない気分になったのを覚えている。
 この本にて、佐々木俊尚氏は「震災復興とGov2.0、そしてプラットフォーム化する世界」と題し、復興における政治、行政のあり方について、「すべてを単色化していく垂直統合的政策ではなく、無数の温度差をそのまま担保できるプラットフォーム型政策へと転換していくしかないのではないか」と述べている。
今回のケースでは復興とは若干事情が違うかもしれないが、災害情報についても自前のパトロール等で得た情報のみを一方的に流す「垂直統合」的役割ではなく、広く情報を収集できる基盤を作り、同時に発信する「プラットフォーム」的役割に徹するのが良いのではないかと思う。

 今回の震災では、福島第一原発の事故について、政府、行政、東京電力による情報隠蔽が問題になった。
そういった体質について他の省庁も他人事にはできないと思う。
今の高度情報化社会においては個人レベルが情報の発信源となるからこそ、情報に対する要求が強くなる。
そのため情報隠蔽はすぐに信用の失墜につながる。
自分は役所勤務時代、どこまでの情報を内部のどの部署まで出して、外部にはどこまで出すなどという良くわからないことに神経を使わされた思い出がたくさんある。
内部でも隠蔽する也、況や外部も也である。

 様々な違和感を感じながらも自分の心の置き所が定まらなく、ダラダラと7年超にも渡る歳月を役所にて費やしてしまった(もちろん良い経験、良い思い出もたくさんある)。
冒頭付近にて述べたように、そんな自分の心はこの本と上記に述べたような今回の震災にて感じたこととが線で繋がり、明確になった気がした。
 当時感じたこのまま役所にいると何かヤバイような気がする。
という予感。
いつしか原発事故における政府、原子力保安院、東電のような自分の手に負えない何かが起こって、周囲から犯罪者のような扱いをされたり、そのような者の気分になるような何かが起こるのではないか。
大袈裟かもしれないけどその不安は間違っていなかったように思える。

 自分の手で相手を変えることができないのならば自分が変わるしかない。
 東浩紀氏、猪瀬直樹氏、村上隆氏の対談「断ち切られた時間の先へ」では、「戦後」における国土の安全をアメリカに保障されたディズニーランド化した日本は震災により断ち切られ、「災後」はそこから脱却し、家長としてリスクと責任を背負っていけるかが重要なのでは、とされている。
その答えが今上海にいることであると信じたい。


 とても良い一冊でした。