久々日記

だいぶ空いたな。

3年ぐらい。。。

東日本大震災があった年、2011年の6月末に公務員を退職し、2011年9月に上海に渡って、2年4ヶ月が経過した。

上海では、2年間知り合いに会社でお世話になり、その後某日系ゲーム会社に転職した。

今回何年かぶりにブログ書いたのは、最近特に仕事で、自分が言いたいことをきっちり説明できなくなってしまったな、そもそも自分の考えがまとまってないな、と思うことが多々有る、
ので、日記を綴ることでそういった問題を多少は解決できないかと思ったからである。

上の方から「なんでそうしたの?」というシンプルな疑問を投げかけられた時に答えに窮すことや、中国人と話がかみ合わないことが多々ある。

後者についてはおかしいやんって場合もあるが、中国人は日本人より論理的だと思う。

いや、正確にいうと話を論理的にしよう努力する。

ただ、最近そういったことに対して明白な論理でスパっと言えなくなってしまった自分がここにいる。

公務員時代はもうちょっとちゃんと説明できたんだけどな。

あの時は事前にこう言われたら、どう答えよう。ああ言われたらどう答えようと常に不安な状況だった気がする。

今も同じ状況のはずだが、どうしてしまったのであろう。

まぁ、いずれにしも次回からは実際に今やっていること、考えていること、うまくいっていないことをダラダラ書いてみて、それをもとになぜそうなってしまったのか、どうすればよいか、解決策とか探っていってみよう。ひたすら書きながら。


そして、ここまで書いてきたのを読みなおすと、そもそも論理力なかったんだなーって思った。。。w

長所と短所

 長所ってなんだろう。

 短所ってなんだろう。


 長所、短所といえば、特に就活の時(自分の場合は役所なので官庁訪問だったが)にエントリーシートに書かされたり、面接で聞かれたりしたもんだ。

 どのような性分が長所にカテゴライズされるのだろう。
同様に短所にカテゴライズされるものとは。


 自分を具体例にして考えてみよう。

 まず、自分は落ち着きがない。
これは表現からも短所にカテゴライズされるであろうし、妥当だと思う。
 人が話を聞いている時、すぐ別の事を考えてしまう。
また、ある一つの仕事に取りかかっている時、別の仕事の事を考えてしまう。
常に気が散漫している。
 でも、その反面、複数の物事を同時に考えたり、進めたりすることができるのは落ち着きがないからだと思う。
これは長所といえるのではないだろうか。

 また、落ち着きがないと通ずるところがあるが、自分は小さい頃から親に短気な性格を直せと言われてきた。
すぐカッとなってしまう。
しかし一方で、他人からすれば何を考えているのか理解しやすいのではないだろうか。


 何が長所で何が短所なのか、家庭や学校教育の中で長い時間をかけて植え付けられてしまったのかもしれない。
長所っぽい表現、短所っぽい表現とともに。


 会社で隣のデスクに座っている中国人の王くん。
たまに一緒に飲みに行くのだが、ビールを注文してから1分も経たないうちに店員に催促する。
日本人的な感覚でいえば気が短すぎるのかもしれないが、自分は便利なやつだなーと思っている。
決断から行動までのスピード感がとても爽快。

 今身近でそのようなことを目の当たりにしたり、こうしてブログを書いていることから、この違和感は上海に出てきてからより強くなったのであろう。

 このように感じた事ももともとはインターネットによる影響が大きい(この文脈では別の話ですが)。


 長所は短所で短所は長所。

 そもそも長所・短所じゃなくて単なる「特徴」。

 日本人全員が落ち着きがあって気が長く、そういう人間だけが集まっていたら。。。と想像すれば、容易な話だと思いますが。

天地明察

天地明察

天地明察

 久しぶりに小説読んだ。

本書は算術家で天文学者江戸幕府初代天文方の渋川春海(安井算哲)を主人公とした小説。
まずは簡単にストーリーを追ってみる。

舞台は江戸時代。
四代将軍家綱の頃。
島原の乱が終わり、ちょうど武断から文治への転換期。
安井家は碁打ち衆の四家の一つといわれる家柄であった。
この時代の碁というのは、教養であり、交友を広げる手段であったので、幕府専属の碁打ち衆は、老中とか、幕府の要人に碁を指導したり、また上覧碁といって将軍の前で予め決められた手を打ち進めていき、将軍が疑問を口にした手があれば、中断し解説をする、といったことを業としていた。
春海も碁打ち衆としてそんな役目をこなす日々であったのだが、やっぱりそんなのつまんない。
ガチンコ勝負のない人生なんてつまんない。
ということで、天才算術家、関孝和との出会いから、碁打ちの世界ではなく、算術の世界に人生の勝負の場を求めるようになる。
やがて、三代将軍家光、四代将軍家綱のもとで政を司っていた会津肥前守、保科正之に見出される。
その時代の暦であった宣明暦が中国から伝来した時から、800年の時を経て2日程ズレが生じてることから、新しい暦に改暦せよとの命を受ける。
中国との緯度の違いを考慮しなかったことや新しい暦は受け入れまいとする朝廷内部の保守派による多数派工作などにより、改暦の儀は何度も失敗するが、春海の大和暦の正確さが世間に浸透してゆき、ついには朝廷は改暦の詔を発布、改暦実現と至る。

昨日、今日、明日。
時間を共有できるのはこのような先人のおかげである。

以上、となるが、そういえば最近つくづく思うことがある。

自分の人生つまんなくしてるのって自分なんだなーと。
自分の何を守りたいのか、失ったら困るもの何なのか、何が不安なのか、何にもないクセに何もやらない。行動しない。思考をやめる。
ただただ漂流中。
渋川春海の算術能力という点では関孝和に劣っていたが、そういう問題ではない。
猪瀬直樹が本で言ってたけど、頭の良し悪しは頭の持久力。それと人生はトーナメント戦じゃなくてリーグ戦。
そしてやっぱり重要なのが、人生勝負したいというテンションの高さ。
スティーブ・ジョブズのどっかの大学での卒業式スピーチと共に、なんというかケツをバッドでぶっ叩かれたような、目の覚める一冊である。

それと、本書の主要登場人物である保科正之
それまでの戦国の常識を覆し、戦国の終焉、泰平の始まりにパラダイムシフトさせた三代将軍家光、四代将軍家綱の影の総裁。
与える領土は既になく、与える金も尽きそうな江戸幕府を武断から文治へ転換させることにより安定させた。
改暦の儀もその一環。
用水路を整備すると、敵軍の侵入を容易にしてしまうが、玉川上水の開削を行い、江戸を縦横に巡る巨大な水道網を設置。
明暦の大火によって、江戸城天守閣が焼失した際は、天守閣の再建を見送って、行き止まりの多い複雑な通路を改築して、火災時の民衆の退路を確保。
またそうして出来た都市地図を一般に配布。
思考が戦国時代から抜け切れぬ幕臣を、今いかなる軍勢が江戸に大挙して押し寄せてくるというのか、と説得した。
また、飢饉→一揆の原因となる凶作は、戦国の世において天意であるから仕方なく慎むべき、質素倹約の良き機会、という発想が常識であった。
でも、それって単なる君主の無為無策でしょとして、米の収穫の一部を貯蔵して飢饉に備えた。
これらの政策って今の時代からすれば、そんなの当たり前でしょって思うけど、当時の世の中の常識、空気からは有り得ないことだったのであろう。
現代においてもこのような常識、常識と言われる雰囲気を醸し出した空気が漂っており、無為無策、思考停止が起きていると思うし、その恐ろしさは、この物語の時代に保科正之がいなかったらどうなってたんだろう、ということ想像すれば容易にわかる。
町人文化として栄えた元禄文化もなかったかもしれない。

この天地明察は映画化されるそうだ。
是非見たいな。

しかし、えん役(妻役)が宮崎あおいってまんまやなw

思想地図β2

思想地図β vol.2 震災以後

思想地図β vol.2 震災以後

 この本「思想地図β2」は、編集長の東浩紀氏の巻頭言「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」から始まる。

 震災直後は「一つになろう」という言葉がテレビ等の媒体から頻繁に流れ、日本が長い低迷期から抜け出し新しく生まれるかもしれないという機運が高まったように感じられたが、震災から数ヶ月経ってみてどうだろうか。
震災により一つになっておらず、むしろばらばらになってしまった。
正確には震災前からばらばらであり、震災後何も変わらなかった。
人々は所得、地域、家族構成等によってばらばらな震災を経験し、そこに連帯というものを感じることができない。
これからの時代、望ましい連帯のあり方はどのようなものであるか、今答えはないがそれを思考し導き出す可能性となることができれば。。
というものである。

 この本は、2011年3月11日の東日本大震災では何が起こったのか、震災後求められるのは何か、思想、社会、政治、科学、メディア等の様々な分野から述べられたものを集約した本。
巻頭言に集約されているかのように、それぞれの記事は様々な分野からの「連帯」というのが一つのテーマになっているように感じ取られ、またそれぞれが今後のなすべき具体的な答えまで言及するものではなく、模索するための手掛かりとして留まってるように感じ取られる。
今と何年後、何十年後の未来とを繋ぐ震災の記憶として、残しておきたい一冊である。

 この本によって自分が感じたことはこの本の主旨に則ったものではなく、若干の相違がある。
今回の震災をきっかけに、この「連帯」について意識するよりも今後個人としてどうあるべきか思考することとなり、この本の様々な記事により、震災当時はっきりしなかったものが明確になったような気がした。

 2011年3月11日は国土交通省職員をやっていたので震災を役所で迎えていた。
当然ながらそれまで経験したことのない揺れを感じたのだが、地震30分程後に目に映ったのは自然の驚異とは思えないような津波の映像であり、この地震は想像をはるかに超えたものであることに気づかされた。
 ちょうどその当時、Twitterを情報源として使い始めたころであった。
役所というのは現代社会にて起きている高度な情報化を全くもって認識できていない組織の典型で、業務に関係ないと判断されるサイトへのアクセスが規制されている。
アダルトサイト等は当然理解できるが、ブログなんかは閲覧することができない。
そもそも業務中にインターネットを開いていること自体が悪とされているような「空気」を感じる。
今は個人でも誰しもが情報源たり得る時代なのにも関わらず。。
前職への愚痴は後にもたくさん登場するのでこの辺にしておくが、そんな役所のネット事情であったのにも関わらず、なぜかTwitterにはログインできたのだw(Facebookmixiも)。
 この本では、津田大介氏により「ソーシャルメディアは東北を再生可能か」と題され、被災者の方々からの「今一番欲しいものは情報」という声の書き出しから始まり、今回の震災におけるTwitterFacebook等のソーシャルメディアの大きな役割を担ったことについて詳細な分析から述べられている。 
 今回の震災ではそれをリアルタイムで体感することができた。
 知り合いで震災時に会社等の建物内におらず、外出していた人が少なくなかったのだが、電話回線不通の中、皆Twitterを情報源として使っていた。
「お台場に行ったが電車が止まっているため、歩いて帰っている。お台場に津波が来るらしいが、いつ頃にどれぐらいの高さの津波が来るのか」
「知り合いが都内にいるが、電車止まっているため帰宅できない。どこが避難所として開放されているか知っている人いませんか」
等々。
Twitterにログインしてから、テレビをはるかに上回る情報の量とスピードに釘付けになっていた自分は、即座にお台場の津波情報をツイートしたり、東京都副知事の猪瀬氏が開放されている避難所の情報をツイートしていたものをリツイートしたりした。
この間、スウェーデンの大学に留学している日本人から当時担当していた土地収用法に関する問合せがあったりしたがw、災害対応の主務官庁である我が役所はまだ災害対策本部を組織する作業に追われていたのであった。。
 またTwitterは、個人レベルから吸い上げられた必要な情報がフォロワーの多い著名人によりリツイートされその情報が一気に拡がっていった。
その情報伝播能力には衝撃を受けた。
 震災の日は役所に宿泊し、それから交代で災害対策本部に詰めた。
そこでは主に広報の担当をしたのだが、その仕事内容というのは各現場事務所からパトロール等により集められた道路等インフラ施設の被災状況をHPにアップし、また各都道府県の記者クラブ?にFAXで送信する、というもの。
しかもHPにはPDFにて貼付け、さらにその様式は決められており、地図ではなく文字のみものである。
一方ネット上では、例えばホンダがGPSの情報から、どの道路が多く使用されているのか、Google mapに視覚的に表示及び公表する等、有効な情報が伝播していた。
震災後しばらく経ってから経産省かどっかからPDFはガラケーから見れないんでテキストにしましょうよ的な主旨の御触れがあったが、その情報を知ったのはTwitterであったので、当然ながら我が役所はそんなことは知るよしもなく、最後までPDFの貼付けであった。
リアルタイムで必要な情報を携帯から見ることができない、しかも文字による地名羅列の情報。
そんなもん誰が求めるのか。
我が役所から発信された情報をTwitterにて目にすることはなかった。
どうやら災害対策本部を設置してマニュアル通りの任務をこなすだけで満足してしまう思考停止状態であったと思えてしまっても仕方がないようだ。
災害対策本部の仕切り役として夜遅くになっても奔走している仲の良い同期の姿を見て、いたたまれない気分になったのを覚えている。
 この本にて、佐々木俊尚氏は「震災復興とGov2.0、そしてプラットフォーム化する世界」と題し、復興における政治、行政のあり方について、「すべてを単色化していく垂直統合的政策ではなく、無数の温度差をそのまま担保できるプラットフォーム型政策へと転換していくしかないのではないか」と述べている。
今回のケースでは復興とは若干事情が違うかもしれないが、災害情報についても自前のパトロール等で得た情報のみを一方的に流す「垂直統合」的役割ではなく、広く情報を収集できる基盤を作り、同時に発信する「プラットフォーム」的役割に徹するのが良いのではないかと思う。

 今回の震災では、福島第一原発の事故について、政府、行政、東京電力による情報隠蔽が問題になった。
そういった体質について他の省庁も他人事にはできないと思う。
今の高度情報化社会においては個人レベルが情報の発信源となるからこそ、情報に対する要求が強くなる。
そのため情報隠蔽はすぐに信用の失墜につながる。
自分は役所勤務時代、どこまでの情報を内部のどの部署まで出して、外部にはどこまで出すなどという良くわからないことに神経を使わされた思い出がたくさんある。
内部でも隠蔽する也、況や外部も也である。

 様々な違和感を感じながらも自分の心の置き所が定まらなく、ダラダラと7年超にも渡る歳月を役所にて費やしてしまった(もちろん良い経験、良い思い出もたくさんある)。
冒頭付近にて述べたように、そんな自分の心はこの本と上記に述べたような今回の震災にて感じたこととが線で繋がり、明確になった気がした。
 当時感じたこのまま役所にいると何かヤバイような気がする。
という予感。
いつしか原発事故における政府、原子力保安院、東電のような自分の手に負えない何かが起こって、周囲から犯罪者のような扱いをされたり、そのような者の気分になるような何かが起こるのではないか。
大袈裟かもしれないけどその不安は間違っていなかったように思える。

 自分の手で相手を変えることができないのならば自分が変わるしかない。
 東浩紀氏、猪瀬直樹氏、村上隆氏の対談「断ち切られた時間の先へ」では、「戦後」における国土の安全をアメリカに保障されたディズニーランド化した日本は震災により断ち切られ、「災後」はそこから脱却し、家長としてリスクと責任を背負っていけるかが重要なのでは、とされている。
その答えが今上海にいることであると信じたい。


 とても良い一冊でした。 

明日上海に渡ります。

 2ヶ月間の無職生活も明日で終焉。
明日上海に渡り、明後日から社会復帰します。

 ていうか、これって社会復帰でいいんだよね。。。?

 
 まーまーそれはさておき、、、
この2ヶ月間様々な人と酒を飲み交わしてきました。
そこでたくさんの励ましの言葉をいただきした。
大感謝です。
ありがとうございます。

 その中で、一番たくさんの方からいただいた言葉が、
「思い切った決断をしたね」
「決断力がすごい」
といったものでした。

 とても有り難いお言葉です。
自分の決断に対して同意してもらえるととても励まされる。

 ただ、それは他人の評価。
自分自身としては単に、より欲求が満たされるよう手段を変えただけ。
仕事は所得を増やす手段であったり、余暇に趣味を楽しむための手段でありますが、それが1番ではありません。
自己実現のための手段です。

 すなわち、今後は中国社会から世界社会に貢献していければ良いなと思います。
だははははー。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

知り合いに借りて読んだ売れ売れの本。
昨日、東京から帰省する高速バスの中で一気に読み終えるぐらい、面白く、読みやすい本だった。

この本はタイトルの通り、ドラッカーというオーストリア人が1973年、63歳の時に著した組織経営の本を、スコアラーとかポカリ配ったりする高校野球女子マネージャーが「マネジメント違い」で読んでしまったらどうなるか、というもの。

組織の定義付け、マーケティングイノベーション等に関するドラッカーの言葉を引用し、高校野球に適用していくことで、普通の都立高校の野球部が甲子園に向けて成長していくストーリーの流れはとても面白かった。

ドラッカーの言葉自体については、すごい斬新なことを言ってるのではなく、今まで得た経験や情報等からそう然るべきだと認識しているものである。
しかし、実際に動いている現場においてその認識が活かされているかというと、個人的には全くであり、それが今後の課題である。


真摯であること。

これが根本的なマネージャーな資質であるとのこと。
これだけで読む価値があります。

突破する力

突破する力 (青春新書インテリジェンス)

突破する力 (青春新書インテリジェンス)

実家から携帯電話で投稿。

今年4月ぐらいに読んだ東京都副知事、作家の猪瀬直樹氏の自己啓発本
著者は40歳ぐらいの時に何某かの賞を受賞し周囲からの評価を得て今に至ってるわけだが、それまではフリーター、フリーライターと収入がおぼつかない生活をしていたそう。
その時の苦労やその状況を如何に突破したか、という経験談を引き合いに出しながら、現代の若者に向け、様々な問題を解決するための思考方法を説いている。

人生はトーナメント戦ではなくリーグ戦。
有能無能は頭の良し悪しではなく、頭の持久力。
ビジネスにも公共の意識、社会貢献の意識。
等々、これらの言葉に背中押されて、良くも悪くも転職を決意したというのも過言ではないんじゃないかな。
ってぐらいの良本。